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         私 の 主 張

   目   次
(19) 一億総ヒステリー
(18) 建学の精神と教育民営化
(17) 嫌煙ヒステリー
(16) 右往左往する野党
(15) リーダーの資質
(14) デフレ退治
(13) キャリア官僚の害毒
(12) 正田邸の取り壊し問題
(11) 竹中叩き
(10) 教育論
 (9) 人命の重さ
 (8) 野生動物の保護
 (7) 戦争と平和について
 (6) 有権者の責任
 (5) 南京大虐殺についての私見
 (4) 誘拐殺人犯の恫喝と強制連行
 (3) 奇妙な首相公選論
 (2) 敗戦忌に想う
 (1) 奉仕活動について
     一億総ヒステリー

その昔、大宅壮一の造語による「一億総白痴化」という言葉が流行したことがあった。

テレビの普及が国民の教養レベルを低下させたと彼が慨嘆したものであったが、私はこの言葉になぞらえて、現代日本の世相は「一億総ヒステリー化」と呼びたい。

この「白痴化」も「ヒステリー化」もマスコミによって煽られ、形成されたものだから真犯人はマスコミであることに間違いはないのだが、嘗ての「白痴化」と異なって「ヒステリー化」は沢山の分野に渉って多種多様であるのが特徴だ。

一例を挙げよう。

政治思想的な分野では「護憲ヒステリー」「非核3原則ヒステリー」「反自衛隊ヒステリー」

差別問題の分野では「言葉狩りヒステリー」「プライバシー保護ヒステリー」「セキュリティヒステリー」「部落解放問題ヒステリー」「住基ネットヒステリー」

ウーマンリブ関連では「ジェンダーフリーヒステリー」「男女共同参画ヒステリー」
教育問題では「教科書選択ヒステリー」「個性尊重ヒステリー」「懲罰反対ヒステリー」「無法青少年問題ヒステリー」

政教分離問題では「靖国参拝反対ヒステリー」「学会ヒステリー」

外交問題では「周辺諸国配慮ヒステリー」「外国人参政権ヒステリー」「難民対策ヒステリー」「不法外人犯罪対策ヒステリー」

司法分野では「違法裁判ヒステリー」「警察弾劾ヒステリー」「訴訟ヒステリー」

社会経済分野では「リストラヒステリー」「デフレヒステリー」
別項目で記述したが「嫌煙ヒステリー」もある。

ちょっと思いついただけで、これだけ問題は多発している。
以上の分類は正確ではないし、同一分野に属するものも多いと思われるから、個別説明をもとめられると困惑するが、中でも凄まじいのは「言葉狩りヒステリー」ではないかと思っている。

私は右眼失明の身体障害者だから、昔の言葉で言うならば「片輪者」なのだが、この掲示板で「自分はカタワだ」と書くことに文句をつける人はいなくとも、自分がカタワなどと新聞に投書したら、カタワという用語を使用しただけで投書は没になってしまう。

以前に何回か書いたことの繰り返しとなるが、作家曾野綾子さんが「ワタシは盲で夫の三浦朱門は聾だ」と書いた文章が新聞社から修正を要求されたとのこと。

言葉狩りの凄まじさに怒った筒井康隆氏が断筆したことは良く知られているが、マスコミが煽っているこうした風潮は、ジェンダーフリーによる家族崩壊工作と同様に、麗しき日本語の破壊工作であり、サヨク革命の先兵を努めていると断じたい。

こうした無数のヒステリーが跋扈している風潮は、我が国が更年期症状に入っている証左というべきなのだろうか。
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建学の精神と教育民営化

現内閣が主唱する構造改革は一向に進展する気配を見せないばかりか、デフレ退治の途も遠く、道路民営化、郵政民営化、改憲検討などかけ声だけは勇ましいが、いずれも遅々として捗ってはいない。これは小泉氏の姿勢に問題ありと評されているようだが、一旦利権を享受した政治家や官僚達の抵抗が凄まじいことも主因であることも疑いないだろう。

我が国再生のために必要とされる大方の改革はいずれも急を要し、慎重な検討のもとにリーダーたる首相の信念と決断によって果断に実行されなくてはならぬことは無論だが、私の個人的意見としては、今の段階では現内閣においてはさほど強調されていない教育改革こそ最も急がなくてはならない問題であると考えている。

戦後数十回に渉って教育改革なるものが実施され、そのすべてが失敗に終わったことは今や誰の目にも明らかであろう。しかも教育改革を実施するたびにそれ以前より悪化が進んできてしまっているのだ。
青少年の非行、無気力化はまさに眼を覆うものがあるのが現状ではないのか。

教育システムの改革に即効薬があるはずもなく、前記の各種の改革に比して長期的観点から対応しなくてはならないが、それだけに緊喫な課題であると信じている。

では、何故我が国の教育がこれほどまでに荒廃してしまったのであろうか。
答えは明快だ。文部省、教育委員会、国公立学校関係者、そして日教組などが、それぞれに確保している許認可権、各種の利権を絶対に手放そうとはしないからに違いない。
この意味で文部科学省と日教組とは利害が一致するから、互いの利益を損じないように暗黙の協定を交わしているとみられる。

江戸時代の寺子屋教育は世界に類例のないほどまで一般庶民の知的水準の向上に貢献したと言われており、就中吉田松陰が創立して松下村塾などは多くの優れた人材を輩出したが、そのいずれも公金などの補助はなく、単に師匠の人格と指導力次第で生徒が集まりもしたし、無能な師匠の塾などは自然淘汰されていった。

明治10年に開校された東京大学は国家有為の人材となる優秀な官僚育成の目的で創設されたものであり、大隈の早稲田、福沢の慶応などはそれぞれ創立者の信念に基ずく建学の精神に則ったものだったが、現在では単に偏差値の序列のみによって仕切られる存在となり、ほとんど個性など喪ってしまっている。そして、かかる惨状は文部官僚が補助金配分権の維持確保のため各種の学校の同一化、平準化を企図したからにほかならない。

国家目的達成のために創立された国立大学などへの公金支出ならば、目的が明らかである限り現憲法下で許されているが、私学への公金補助などは下記の憲法条文から違憲であるにもかかわらず、現在でも平然として公金補助が続けられているのは不思議というしかあるまい。

日本国憲法第89条【公の財産の支出又は利用の制限】
公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない。

私学助成金の配分権を握る文部科学省官僚はもちろん助成金を受領する私学側も既得権化してしまった補助金交付は当然と心得ているから、私学の建学の精神などはどうでもよくなり、画一化した教育システムしか残らないことになってしまった。

戦前の東京帝国大学学生には少なくとも我が国の国益に奉仕するための教育を受ける自覚があり、陸軍士官学校や海軍兵学校生徒などにも明確な入学の目的があった。陸士海兵を卒業して一般人になろうなどと考えていた生徒など一人もいなかったし、陸士海兵同様に授業料無料であった師範学校生徒などもすべて卒業後は教師になることしか考えてはいなかった。

彼らにはそれだけの自覚とプライドを有しており、学校は各自の人生目的達成のために選ぶべきものであったのだ。しかるに現在の学校はどうであろうか。
デモシカ教師ならばまだガマンできるが、大方の教師は国籍不明、反日教育に専心しているらしいし、そうした教育を受けた年代が再び子供たちに国益に反する教育をくりかえしているという悪循環に陥っている。。

大学生は入学してから初めて卒業後の職業選択を考えるのだから、志願する学校の性格などは二の次となっているようだ。
とにかく、なるべくならば偏差値の高い学校に合格することだけが人生の最終目的であるかの如くだ。

かかる現代教育の惨状は関東大震災、関西大震災などとは比較にならぬ大きな被害を国民に与えており、戦時中の空襲による全国的大惨害を超えるものと断じて良いだろう。

ではどうすればかかる悪循環を断ち切ることができるか。
これについても私の答は明確だ。

大学から小学校に至るすべての学校を民営化し、国庫からの補助金を全廃することだ。
授業料、入学金、受験料などはすべて学校独自で決定し、文部科学省の容喙をゆるしてはならない。

憲法で教育の権利と義務が規定されているのだから、国や地方公共機関では教育を受けるべき年代の生徒達に対して教育費用を支出しなくてはならないが、授業料などの資金はそれぞれの生徒及び保護者が選んだ学校に直接交付すればよい。
生徒や保護者は少しでも良い指導が受けられる学校へ入学希望するであろうから、学校間の競争は熾烈となる。

自由競争原理が働き、各学校とも優秀な教師を集めなくては生き残ることが出来なくなる。
ダメ教師ばかりの学校は志願者が激減することだろうから、経営困難となり廃校に追い込まれ自然淘汰されるだろうが、やむを得ないことだ。

無数にある予備校、学習塾の実態をみるがいい。
それらの学習機関は学校としては認定されず、卒業してもなんらの資格もあたえられないが、それでも優れた予備校、学習塾には沢山の聴講生が集まってくる。これはそうした予備校や学習塾経営者は必死に良き講師を招いているからだ。
経営のシステムは会社組織あるいは個人経営だから、利益をあげることが第一の目的であり、そのためには魅力ある指導により生徒を集めることが前提となる。

過去のある時期に、予備校、学習塾が悪玉視され、熾烈な受験地獄を煽っている元凶でもあるかのごとく非難されたこともあったが、今では予備校や学習塾を敵視する発言は見られなくなった。それはこうした受験業界が必死の努力を続けてきた成果を世間が認めざるを得ないことになったからではなかろうか。

現在の各学校が完全民営化されたら、現在の予備校業界と同様に生き残りを賭けての熾烈な競争となるであろうから、目的が明らかでなく、かつ成果を上げることが出来ない学校は自然消滅していく。

義務教育は小学校6年間のみとし、ここでは基礎的な国語算数の知識を身につけさせ国民として最低の教養を身につけされる。
中学校、高校は教育の目的を明らかにし、専門的知識を指導する学校運営を推進させる。
当然スポーツ専門校もあるべきだし、職人技術取得、あるいは芸能関係への途を志す生徒のための学校もあって良いだろう。
この中高一貫校は権利教育として学費は生徒あるいは保護者に対して直接的に公的資金で支出するが、授業料などは生徒が入学した学校に公的資金を振り込むこととする。

中高一貫校においては、かなりな程度まで専門分野を特化すべきだ。
私の学習塾経営体験からみて、中学生になったときには生徒の好みは極めてしぼられてくるのが常であり、絶対に受けたくない授業なども出てくる。
勉強キライな子供たちに無理矢理授業を強制することはなんとも虚しいというのが実感だった。
ところが現在主要教科とされている英数国理社などはいずれも苦手のため、学校では落ちこぼれとされ、担任にすら見放されている子供でも多くの場合には特別に関心を抱いている分野があるものなのだ。
高校受験のためにイヤイヤながら苦手の英数国利社を受講しているのだが、彼らが興味を持っている分野になるとまるで別人の如く活き活きとしてくるのは不思議なくらいである。

すくなくとも戦前までは義務教育の小学校を卒業した多くの子供たちは所謂「上の学校」と称される旧制中学などに進学する少数の者を除いては商家に丁稚となったり、職人の弟子となって一定期間の徒弟奉公を経験していた。そういう立場にたっても彼らは水を得た魚の如く活き活きとして働いていたのである。
小学校しか卒業していない松下幸之助や田中角栄に受験勉強の詰め込み教育を施したりしたら果たして彼らは一流大学を卒業してその後の成功者となれたであろうか。

当時は家が貧しかったから進学したくとも出来なかった子供達も少なくはないと思うが、現代では仮に低所得の家庭の子供であっても国費によって進学できる体制作りは簡単にできるはずだ。戦前まで存在していた最貧層の存在は今や消滅したと見て良いし、教科書代、学用品代、給食費などは保護者(高額所得者は除外する)に直接支給する。
希望があれば給食を辞退して母親手作り弁当持参も許可する。
(従って国庫から支給する給食代は母親の手間賃となる)
これによって、不良給食業者の淘汰を促進できる可能性も出てくる。

中高一貫校では原則として予め専門分野を明示させ、かつ授業の選択の幅を拡大する。
必修科目は数学、国語のみとし、その他の学科はすべて選択制とする。

学校の経営システムは株式会社とし、卒業生に株式保有を呼びかける。優良企業の役員を務めている卒業生がいる場合には、会社による株式取得を認めるだけでなく、損金計上できる寄付金を認めるが、その寄付金は必ず税務署に届け出するものとし、税務当局より文部科学省に報告する。
税務調査は通常企業と同様とし、特別な優遇措置はとらないが、完全民営化までの移行期間中はある程度の緩和措置が必要かも知れない。

大学の特化も強力に推進する。
入学志願者は卒業後の目標を見定めて志望校を選定することとなるから、受験科目はその大学及び、学科において必要とされる最小限のものとする。
先ず従来の国公立大学の中から官僚養成専門校を発足させ、ここでは国家有為の人材を育成させるためノブレスオブリッジの精神を特に厳しく教導するものとし、卒業後に入省すべき政府機関をも予め選択できるように各学科を設置し、各省から専門官を講師として派遣する。
現在のキャリア官僚は難しい上級職試験合格者であるエリートだが、言ってみれば左脳つまり暗記力だけが発達している人間辞書ともいうべき存在だから行政機関の政策実行者としては欠陥が目立っている。勿論豊富な知識を保有していることは望ましいのだが、そうした知識を現実の行政に適応させる柔軟な思考力、つまり右脳を鍛えることが肝要だから最近はあまり流行らなくなったブレーンストーミングなどの手法や、ディベート訓練によって真に国家行政に役立つ人材の養成が急がれる。
辞書人間のキャリアが行政を支配している限り我が国の未来はないと断じたい。

この大学設置に伴い現行の国家公務員上級職試験、外交官試験、司法試験を廃止する。
大学は義務教育でも権利教育でもないから、学費は原則として個人負担とするが、この官僚育成専門校、及び教育大学、防衛大学に限り学費を生徒個人支給することとする。
給料あるいは無利子奨学金の大幅支給も考慮に入れてよいだろう。
ただし卒業後の一定年限は定められた機関あるいは学校に勤務すべく義務づける。

その他の大学は可能な限り職種別に専門化し、一般教養講座などは最低限に縮小する。
私事ながら法学部生だった私は講義時間帯の関係から最も望ましくない生物学などを受講せざるを得ず、誠に不愉快に感じて学ぶ気持ちなど最後まで起きなかったことを付記しておく。
学校の株式は国内外の企業からの出資を仰ぎ、一定額の法人税納付している優良企業に対しては特に大学の株式保有と寄付金納付を奨励するが、同時に大学側に対しても当該企業へは卒業生を優先志願させる配慮を要請する。
場合によっては超優良企業が大学を丸抱えしても良い。例えばトヨタ大学、ソニー大学などが出来たら人気沸騰するのではないか。ただしトヨタ大学卒業生でもトヨタ自動車に入社できない者もありうるが、トヨタ大学卒業生という肩書きだけでも他社から歓迎されることは想像に難くない。

以上、各種学校のあるべき姿について略述したが、最も重要なことはそれらの教育機関を学校として認可する要件を簡略化することであろう。
単なる開校届け出だけで学校として認定してよいかどうか、いささか疑問もあるが、文部科学省官僚の恣意的基準での許認可はあってはならない。
在校生の一定人数が最低水準の国家試験に合格したならば半自動的に学校として認定するとか、あるいはもっと適当な方法も考えられることだろう。

かくして自由な校風の学校が各地に開校し、生徒達が満足できる方向性が明らかとなることから、登校拒否などは激減、ダメ教師が多い学校は淘汰され、画期的な教育改革が実現可能となるはずだし、現在各地に乱立している予備校や学習塾などのほとんどは学校としての認定基準をクリアできることであろう。
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「嫌煙ヒステリー」

まず最初にこの題名は落合信彦氏著「もっともっとアメリカ」の中の一節を借用したものであることをお断りしておく。

文芸春秋社刊「諸君2月号」で「編集会議」とやらいう雑誌編集長の花田紀凱なる人物が千代田区の禁煙条例制定を手放しで称賛していた。

文頭でいきなりこうだ。
「もはや、彼らに良識、マナーなど求めるだけムダだ。いくら言ったって分からない奴には分からない。」
到底まともな言論人の論評とは思えない傲慢な言い草である。

私は60年来の愛煙家だから、千代田区の禁煙条例はあまり歓迎出来ないが、どこへ行こうとポイ捨てや歩きながら喫煙などは避けている。

嫌煙者に出来るだけ迷惑をかけないように努力しているつもりだが、嫌煙ヒステリー論者はそれすら許せないらしい。

千代田区の罰金2000円は安すぎる、10万円にすれば区内での喫煙は撲滅出来るとアホなことをのたもうていた。

バカな奴だ、仮に罰金10万円となったらどうなる。
区内の愛煙家はトイレなどに隠れて秘かに喫煙するに決まってる。

その昔、メンスの上がったオバハン達が売春防止法制定に狂奔した。
その結果売春が根絶したと思っている人が一人でもいるのか。

私は売春防止法を裏売春奨励法と読み替えているくらいだ。

通信傍受法を盗聴法と勝手に読み替えることが許される時代風潮なのだから、売防法を売春奨励法と読み替えても許されるだろう。

公娼制度が健在である外国は多いそうだが、我が国で売防法施行以後は遊郭など全廃させられたから、立ちんぼと称する私娼が急増した。

その結果保健所などが公然と衛生検査などできなくなり、性病増殖に役立ったとさえ言われている。

あるアホが、「石原都知事様、千代田区にならって都内全域に禁煙条例を制定して下さい」などと投書しているのを見た。
次は禁煙法制定運動がスタートするかもしれない。

そうなったらどうなる。

筒井康隆のブラックユーモア小説にあるが、日本たばこ会社の社員は全員失職して家族が路頭に迷う。
細々と経営している煙草小売店が閉店、続いて嫌煙暴徒が煙草店襲撃、喫煙者の自宅が次々と焼き討ちされる。

そして20世紀初頭のアメリカ禁煙法時代の如く暴力団の効率的な資金源として闇煙草製造会社が大繁盛するだろう。

それでも暴徒の襲撃が続き喫煙者は減らざるを得ない。
最後に残った愛煙家2名が家を追われ、行き場がなくなって東京タワーの頂上まで逃げ込む。

回りを取り囲んだ大群衆が「あと二人、あと二人」の大合唱に混乱した一人はタワーから墜落して即死、大合唱が「あと一人」に変わった。

最後に残った唯一の愛煙家がもはやこれまでと諦めたところへ、動物保護団体の宣伝カーがやってきた。
「現在の我が国に残されたただ一人の喫煙家は貴重な生物ですから、保護しましょう」とマイクで大音声をあげた。

以上が、筒井康隆氏のブラックユーモア小説の梗概。

狂的な嫌煙家であるらしい花田なる人物は短い文章で喫煙者に対する卑猥な罵詈雑言をよくそこまでと思われるほど書き連ねているが、私は彼に反問したい。

「オマエが好きな食べ物をキライになれと言われたらキライになれるのか」と。

いくら言って聞かせたって分からない奴には分からない。

喫煙は健康に良くないと言われており、統計的には肺ガン発生率は喫煙者のほうが禁煙者より高いことは事実だが、医学的、科学的に喫煙=肺ガン発生という因果関係は立証されてはいないと聞く。

その証拠というわけではないが永年の愛煙家で100歳以上の長寿をまっとうしている人はいくらでもいるのだ。

健康に悪いというならば、ふぐ料理のほうがよほど危険だ。

これは常に中毒死の危険が伴っているのだから、第一に健康安全を期するならばふぐ料理賞味を禁止し、ふぐ料理店営業許可を取り消さなくてはなるまい。

煙草を吸って即死したという例は寡聞にして私は聞いたことがない。

嫌煙者が他の人の吸う煙草の煙をいやがることは理解出来るから、他人に対しての配慮が必要だという主張は納得出来る。

だから煙害に対しての厳しい規制ならば賛成する。
しかし千代田区内全域での禁煙とはいかがなものか。

鉄道の駅の各所に設置してある喫煙所程度の設備を準備すれば済むことではないのか。
最近利用度が激減した公衆電話ボックスの転用など考えればよいことだ。

落合信彦氏の著書ではアメリカで1970年代ころに突然嫌煙ヒステリーの風潮が発生し、それが日本へ輸出された経過が詳述されているが、私も突然嫌煙権なるものが登場してきたときは不審に思ったものだった。

ある日突然、それまでは喫煙自由だった航空機内に喫煙席と禁煙席が分離され、レストランでも禁煙席が急増してきた。

愛煙家の私でもこれは仕方ないと諦めたが、ここまではゆるせる。

明らかに嫌煙ヒステリーと思われる風潮が過激化し、全店内禁煙の食堂が出てきたり、広いレストランでも喫煙席皆無のところも出現してきた。

タクシーにも時々禁煙タクシーがある。
しかしそれらに共通しているのは店外に禁煙表示が出されていないことだ。

店内に入ってテーブルに灰皿が置かれていないから、この店は禁煙なのだなとやっと気付いた時は遅い。
タクシーも乗ってみたら車内に禁煙のラベルが貼ってあったりする。
これは詐欺行為だと思った。

禁煙を規定するならば店外あるいは車外の客に事前にわかるように義務づけるべきだ。

私はレストランなどに入ってみて、すべてのテーブルに灰皿皆無であることを発見すると、即刻引き返して他のレストランを探すことにしている。
タクシーはこうはいかない。
乗ってしまってから禁煙タクシーであることに気付いても即刻降りるというわけにもいかず、降りたとしても料金は請求されるだろうから、ガマンするしかない。

愛煙家が最もたのしみとしているのは満ち足りた食事の後の一服の心地よさだが、喫煙を嗜まない人達には分かるはずもないだろう。

私の亡母は60歳ころまでは専業主婦として絶対に酒や煙草を嗜むことがなかったが、60歳を過ぎ、私を含む5人の子供たち全員が独立して老夫婦のみの暮らしとなったころから、僅かに梅酒やビールを飲み、また食後の喫煙を楽しみとするようになった。

時々訪れる私はその都度煙草一箱を母にプレゼントしたが、一箱の煙草で四日間くらいはもつと言っていたから一日平均4〜5本程度の喫煙量だったはずだ。

老いた母が食事の後にゆっくりと紫煙を漂わせ、いかにも満足げに「食事のあとのタバコは美味しいものだねえ。」と呟いていた言葉を印象深く記憶している。

私は食事の後だけでなく、仕事疲れを癒すためや難問に直面して迷っているときなどに一服の喫煙で精神安定に役立たせることも少なくはないのだ。

だから、マリワナやコカインなどの麻薬を嗜む気は皆無だが、煙草だけは如何に攻撃されようとやめる意志はない。

禁煙法が施行されたら暴力団経営の闇煙草会社の良き顧客になるだろうことは疑いもない。

煙草を嗜まない家内が始終禁煙を勧めるが、いつも私はこう答えている。
「オレは始終禁煙してるじゃないか。昨日だって20回も禁煙したんだ。」
ジョークの理解出来ない家内はふくれっ面だが、私は意に介しない。

私の親友でかつ飲み友達がいる。
彼とは始終飲みにいくがある日突然、彼が禁煙宣言した。
ところが、次回に一緒に飲みにいったところで私がポケットから煙草を一本取り出したとたんに「ワリイけど一本くれないか」である。

私は驚いて「オマエ、禁煙したんじゃなかったのか」
「煙草を買うのをやめたんだ。吸うのはやめた覚えがない。」

ここで彼の名誉のために弁明しておこう。
彼は決してケチで煙草をたかっているのではない。
その証拠に飲み終わった時には必ず素早く伝票を掴み、サッと支払いをすませてしまうのが通例なのだ。
「ワリカンでいこうよ」
という私の提案はいつも無視される。
「煙草をゴチになったことだし、この払いくらいまかせとけ。」と、こんな具合だ。

かなり前の話だが掛かり付けの診療所医師に半強制的に大病院での健康診断を指示されたことがあった。
気乗りはしなかったが、医師の紹介状を持参して指定日に半日がかりの検査を受けた。

約2週間後、指定された日時に私は検査結果の説明を受けるために再びその病院に行った。
懸念していたとおり検査時同様、2時間も待たされ、やっと名前を呼ばれて診療室に入り初対面の担当医に会った。

彼は私の検査資料をパラパラとめくっただけで
「血圧も年齢相応だし、まずまずのようですな。
ところで貴方、タバコを吸いますか。」
「ええ、永年嗜んでます。」
「では、たった今から禁煙しなさい。もしも今ポケットにタバコが入っているならばただちに捨てることです。そうしないと貴方は間違いなく5年以内に死にますよ。
ところで、一日に何本くらい吸っていますか。」
「だいたい一日一箱ですから、まあ平均的な喫煙量かと思っています。
それに私は煙草に火をつけても一口か二口吸っただけでもみ消してしまっていますから、実質的な喫煙量は10本もないと思っているのです。
それをさらに減らすくらいならば、努力できないこともないかも知れませんが・・・。」
「ダメです。節煙くらいでは効果がありません。完全に禁煙しなくてはなりません。」

呆れて返事も出来ない私を無視して、その医師は上司である大病院院長の悪口をしゃべりまくっていた。

それから約8年経過しているが、私はまだ生きているから、その医師は単なる嫌煙ヒステリーの一人だったとしか思えない。

また、別な話だが、メルマガ開設に関心があった私はネットで無料メルマガ提供サイトを発見してその内容を読んで驚いた。
メルマガ参加者の条件として
(1)喫煙を美化し、或いは肯定する者
(2)戦争を美化し、或いは肯定する者
は、このメルマガの参加資格無しと決めつけているのだ。
無視すれば良かったが、余りにも不愉快な条件なので私はサイト管理者宛にメール送信した。
「私は喫煙や戦争を美化するつもりなど毛頭ないが、喫煙者が存在し、または地球上に戦争が存在している現状を否定することなど出来ないから、このメルマガの参加資格なしと自認しています。」
と送信したのだった。

30分も経ないうちに返信があった。
戦争については一言も触れていなかったが、喫煙者への弾劾は極めて過激な発言にあふれたものだった。
「喫煙者はすべてマナー知らずの人間であり、マナーの良い喫煙者に出会ったことがないのが証拠だ」
との稚拙な主張だった。

「当たり前だ。マナーの良い喫煙者がアンタの前になんか出てくるはずもないじゃないか。」
と反論しようかとも考えたが、こんなアホ相手に論争してもムダだから無視した。

愛煙家を汚い言葉で罵った花田紀凱なる人物は貴誌掲載写真で見てもいかにも神経質で陰険そうな人相をしているから、文筆家らしからぬ言葉使いも当然だと思われたが、彼の用語にならうならば、嫌煙家なんてとんでもない。
単なる煙草嫌いのエゴイストであり、他の人への思いやりなど皆無のキチガイと呼べ。
と言って反論しておこう。

いずれにせよ、私は声高に嫌煙を叫ぶヒステリーの輩が嫌いだから、反対陣営からは嫌嫌煙ヒステリー一派と罵倒されるかもしれないが、致し方ないだろう。

そして、同時にこのような愚劣極まる駄文を麗々しく掲載した「諸君」誌の編集方針に対しても疑念を抱かざるを得ない。

返す刀で貴誌もバッサリということになるかもしれないが、永年愛読してきただけにいささかの批判をさせていただく。

私の定期購読オピニオン誌は「諸君」と「正論」であり、書店で「Voice」などを手に取り、目次を見て気に入った論者や論題が掲載されている場合には随時購読するという程度だから、思想傾向はご推察出来るかと思う。

正論と諸君を読み始めたのはほぼ同じ時期からだったはずだが、その頃の内容は相互で相手方をライバルとも見なし、かつ僚友とも想定しているかの如きところがあり、編集内容も論文の質的レベルもほぼ互角な戦いを続けているように感じた。

先般、諸君の巻頭を飾る「紳士と淑女」筆者や産経新聞石井英夫氏などを含めたコラムニストの座談会記事を読み、山本夏彦氏のエッセイに匹敵できるだけのコラムで特徴づけるために「紳士と淑女」欄を創設したとの裏話を知った。

山本夏彦氏については多くの文筆家の評価が高く、贔屓目で同氏のエッセイには注目していたが、確かに文章はよく練られているものの、ドキッと驚かせるほどのものは少なかったように思えた。

それに対抗してスタートしたという「紳士と淑女」の筆者名は明らかでないこともあり、私は編集長氏ご自身の手になるものかとカンチガイしていた。

小さなコラムを集めた感もある同欄は、常に刺激的で鋭い指摘も多く、私はいつも快哉を叫んでいた。

私が愛読している新聞は産経だが、これは石井英夫氏の産経抄を読みたいために購読しているようなものであると同時に、諸君も「紳士と淑女」欄を読みたいために購読し続けたと言っても過言でないほどだ。

最悪はかなり長い間掲載されていた有名人ペット写真集。

他の人物の愛犬や愛猫などに全く興味はないから、諸君が何故そのようなくだらぬものに大切な誌面をさくのかわからず、モシカしたらその有名人から寄稿を仰ぐためにヨイショしているのかと疑った。

最近ようやくペット写真が消えてホッと一安心。

しかしながら、いつの間にかライバル誌であった正論誌との比較では徐々に差が広がっていった。
ページ数で大幅に差をつけられたことは気にならなかったが、論文の質の差が拡大していったと思う。

正論誌は毎月末日に配送され、諸君はその翌日、つまり翌月初日に配送されるのが常だから、当初は正論誌を読了し終わってから諸君を読み始めていた。

ところが美味しいものは後から食べるという私の個人的嗜好から、面白い論文が豊富に掲載されている正論誌を後から読むように変わっていった。

「紳士と淑女」欄を読み終えたら、もはや諸君にはあまり興味ある論文が残っていなかったという感すらしたことも再々あった。

そしてその「紳士と淑女」欄すら昨今は昔のような切れ味が次第に薄れて行きつつあり、これはひょっとすると筆者が交代したのではないかとの疑念が生じている。
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  右往左往する野党

 マスコミのすべてが民主党代表交代を論評している。
 代表選挙が終わった瞬間から代表降ろしに狂奔した党員もヘンだが、政治家4代目の坊ちゃん鳩山由紀夫の指導力の弱さも攻撃の対象とされるのも当然だろう。

 どだい、期待するほうがムリとはいえ、菅直人と小沢一郎の謀略との疑いも濃いことだし、どちらにせよ、政権の受け皿となりうる新党結成などは望むべくもあるまい。

 「自由党と民主党が合併して自由民主党になるんかね。」
なんて小泉首相が笑っていたそうだが横路一派や社民党までとりこもうとするかの如き姿勢は、どう見ても政見などどうでもよい、数あわせの野合でしかないことは明白だ。

 だからとて小泉率いる自民党とて威張れたものではない。
自民党は沢山の派閥連合体であり、それぞれの派閥は一つの小政党とみてもよいくらいだ。

 そしてそれらの派閥は利権獲得目的のために結束していることは確かだし、政権政党の中にあるかぎり、利権確保も容易にできるのであろう。

 政権の旨味を体験している民主党議員にとってはどうしても再び政権に参加する願望を捨てることが出来ないのであろう。

 このような現在の政界システムを抜本的に改造出来ないのであれば、どうせのことだから、この際自民党も小泉氏の主張どおりぶっ壊して解体し、橋本党、小泉党など小党として発足すべきではないか。
 そして保守的思想の政党だけが保守連合を組めば、新しい連合組織が政権を獲得できることも確実だろう。
 政策協定も本質的には保守的思想の系統に属するメンメンならば、歩み寄りは可能のはずだから、議案ごとに各小政党の間ですりあわせを実施すればよいのだ。

 ただし、共産党、社民党、公明党は明らかに思想が異なっているから、この保守連合に参加させてはなるまい。

 保守連合は利権獲得で派閥形成しているので結束力が弱体であることは当然だが、サヨク系政党及び公明党はそれぞれマルクス教、池田教に洗脳されてしまった連中だから、到底再度の洗脳はムリであろうし、中・韓・北からの利権享受も捨てることはできまい。

 民主党、自由党はそれぞれ鳩山党、菅党、小沢党などを発足させ、保守連合の一員となれば悲願である政権参画も出来るし政界での発言力も得られよう。
 
 本来ならば指導力抜群の政界リーダーが出現して、利権構造に惑わされることのないシステムを構築してくれることがベストだとは思うのだが、次善の策として以上の珍案をご披露したい。
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   リーダーの資質

 この掲示板で私は稚拙ながら「大人の童話」2編を創作執筆した。
 いずれも、リーダーは如何にあるべきかをテーマとした物語だ。
 そして、このテーマについて私はいまだに結論を出せないままだ。

ただし、自信を持ってはっきりと主張したいことは、リーダーは会議の議長とか司会者であってはならないということ、そして場合によっては全員の意志に反しても自己の信念を貫き通す決断力が必要不可欠なことだと思う。

緊急の場合には独裁権を行使しても判断決定しなくてはならないのだ。
勿論、結果としての判断ミスもあり得るが、その場合の全責任を負う覚悟がなければリーダーを引き受けるべきではないのだ。

 戦後民主主義なるおかしな風潮から、何ごとでも合議制=善 とされるような世相となってしまったが、大人の童話「日本丸の航海」でも論じたように、危機に直面している船舶で、合議制などをやっていたら、危険は数倍となって降りかかってくることは必定なのだ。

 熟練した船長にすべてを委ね、後は船長の強運に望みを託すことだけが、船員にとっても船客にとっても最良の選択と言えよう。

日本国の次のリーダーは誰か?
断定的なことを言える段階ではないが、たとえ誰が首相に就任しようとも、一定期間はその人物にすべてを委ねる度量を国民は自覚すべきなのだが、残念ながら我が国では新首相就任と同時に野党は勿論、与党やマスコミが声を揃えて枝葉末節を攻撃し、足の引っ張りに終始するのが恒例なっている。
だから歌手3年総理1年の使い捨てなどと評されるようになってしまった。

我が国首相の立場は学校の掃除当番みたいに毎日のような入れ替わりが続くのだから、部屋を箒で掃くくらいがせいぜいで、到底普及した建物の修復まで手が回るはずもない。
次期首相は言葉通り命を賭けて自分の信念を貫いて欲しいと切に願う。
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   デフレ退治

どこまで続くぬかるみぞ、ではなくて、何処まで続く平成不況。
その昔、悪性インフレが常時続いていた頃、一度くらいデフレってものを体験してみたいもんだと思ったこともあったが、当時の経済学者の論文でデフレ退治はインフレ退治よりタイヘン難しいのだという説明を読み、そんなものかなと不思議に感じていた。しかしその説明は本当だったらしい。今では誰がやっても退治出来ないデフレで全国民が苦しんでいることは確かなようだ。
期待されて登場した堺屋前経済企画庁長官も、さしたる権限も与えられないまま、最後は野党やマスコミなどの袋叩きにあって退場したが、竹中氏も今までは権限もないのに攻撃ばかりされていて気の毒だった。今回はようやく重要な経済閣僚としての実行力を問われることとなったが、少し強硬策を提案したとたんに金融界からの猛反撃。これは銀行首脳部が自らの保身を計るための闘いと私は見ている。竹中案が実行されたならば日本経済の回復に成功できるかどうか、神ならぬ身には予測できようもないが、すくなくとも誰がやっても回復困難だった現況を打破する希望だけはありそうな新しい提案に思える。しかし、これを強行すれば間違いなく現在の銀行トップの連中のクビが飛ぶ。ただ銀行の改組、統合はあっても一般職員は概ね安泰だ。過剰人員がリストラされることはあり得ようが、リストラの対象とされる人々の大半はやる気のない連中だろう。本気で働くつもりがあるならば、フリーターなんかでなくとも、まだまだ転職の機会は沢山あるはずだ。
経済復興を計るためには、相当程度の荒療治を避けるわけにはいくまい。
失業率が高いというデータは働く気のない人、楽な仕事で高い収入を求める人達がふえてるためではないのか。
餓死者が出たって話も聞かないし、昭和初期の不況時のように口減らしのために娘を売り飛ばしたり、生まれた赤子が川に流されたりする悲劇もない。若者の海外旅行熱は相変わらずだしブランドで身を飾っている娘達がこれほど多いのに、不況、不況と騒ぎたてるのはどうかなって気もしないでもない。
いま、首相に求められる問題は数多いが、その一つの重要事項として挙げられるのは日本経済回復を実現すべき断固たる姿勢ではないのか。かのヒットラーの奇跡的とも言えるドイツ経済復興の成功を範とし、首相が真に信頼する経済閣僚に全権を委ねて、強行突破を試みるしか残された手法はないように思える。ソフトランディングなど、所詮はかなわぬ夢に過ぎないだろう。
首相はいざとなったら、自らが選任した閣僚に責任をとらせることなく、自分自身の政治生命を賭けるだけの心構えを公約しておくことも必要だろう。
小泉氏はマキコにスカートを踏んづけられたと罵られたが、あの場合はスカートを踏む事が正しかった。しかし、これから実行する経済回復政策の推進に当たっては、スカートは勿論背広の裾を踏むことすら、許されるべきではない。
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   キャリア官僚の害毒

 世の中にはお勉強の出来る人が沢山いる。各種の試験に合格するために膨大な知識を詰め込んでは、東大を卒業、公務員上級職試験や外交官試験に上位で合格し、出世街道を驀進することが人生の最大目的であるらしい。
 それはそれで意味のないことではないと私は思う。ある分野では豊富な知識を有する人物がリーダーを務めることが有意義な場合もあるだろう。
 しかしながら、国政の重要事項を発案、且つ決定すべき分野の責任者たるべき人物がそのような知識だけの人間ばかりで独占されてしまったらどうなるか。
 役人の心得は「休まず、遅れず、働かず」だというが、キャリア官僚そのものこそ、その典型ではないのか。
 この格言は官僚の保身と出世のために必要不可欠な要素であると言われている。
 そしてもうひとつ、 キャリア官僚には重要な心得が存在している。
 それは、キャリア同士の団結心、言い換えれば庇い合いだ。
キャリアは入省年次と公務員試験の合格席次によって出世街道エレベーターに乗る順序がほぼ決まってしまうそうだ。
 だから、この序列を妄りに乱す者は別として、キャリアの一人がミスした場合には、序列が混乱しないように、全員でかばい合って、責任をノンキャリアに押しつけてしまう高等戦略を心得ているようだ。
 その極端な例が、呆れ果てるほどの怠慢さで大東亜戦争宣戦布告の通告を放置した当時の駐米大使館員だが、そのような大失態を冒したキャリア達が戦後は事務次官まで出世したことが如実に物語っている。
これは外務畑の大先輩である吉田茂の意向が働いたものであり、キャリア官僚の秩序を維持する勢力の凄まじさをかいま見ることが出来る。
これに反してナチスからユダヤ人を護ったことで、イスラエルから最大の感謝を受けた杉原領事はノンキャリアゆえ、戦後、簡単に外務省を追われ惨めな生涯を終えたと聞く。
キャリアの横暴さにはなんともやりきれない思いだ。
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   正田邸の取り壊し問題

テレビ報道を賑わしていた問題の一つに美智子皇后陛下のご実家である正田邸の取り壊しが大きく採り上げられている。
ご成婚当時、民間から初めてのお妃ということで脚光を浴びたが、実は民間人最初の皇后は第16代仁徳天皇の皇后。葛城襲津彦の娘。磐姫皇后だそうだ。そして次は光明皇后だから、美智子皇后が初めてというわけではないが、神話に近い古事記時代のことだから美智子皇后が民間から初めて皇后になられたと言っても誤りともいえないだろう。
ミッチーブームはさておき、皇太子妃として、皇后陛下として世界に誇る我が国の皇室を支えてこられた立派なご事績は日本国民として後世まで頌えたいと思うほどのものだ。
しかるに財務省の相続税徴収によって物納せざるを得ないハメになり、地元池田山の住民達は悲痛な声をあげている。
責任者たる塩ジイは「規則どおりにやるしかない。」とそしらぬ答弁。
そんな騒ぎは他人事かのごとく小泉首相は、ご当地池田山に引っ越ししてくるなんて、皇室を敬愛する国民の気持ちを逆撫でするかのごとき振る舞いだ。
軽井沢が建物の移設提案をしていることに、幾らかの救いは感じられるが、せめて文化庁か宮内庁が買い取って、記念館くらいに転用することくらい考えられないのかと疑問を感じざるを得ない。
他国にバラまき続けている膨大なODA予算のごく一部分を割いてでも我が国が誇るべき貴重な文化財を護ることこそ、政治家の重要な仕事ではないのか。
 ところが美智子皇后陛下に対して宮内庁がご実家取り壊しについてのお気持ちを伺ったところ「軽井沢の方々が家を移築してくださるというお気持ちは大変嬉しく思いますが、私は取り壊して頂いて良いと思っております。亡き父母もあの家を取り壊すように申しておりました。」という趣旨のご返事があったと発表した。
このニュースを聴いた軽井沢町長は落胆したが、皇后陛下のご意向であるならば致し方ないとコメントしたとあった。
しかし、疑い深い私は考えた。恐らく美智子皇后陛下は、もしも実家を出来るだけ存続して欲しいなどとご意向を漏らされたらどうなるか。
ことは宮内庁と財務省との闘いになりそうだということは常識人ならばただちに気付くはずだから、あの賢明な美智子皇后陛下がお気づきにならぬはずはあるまい。
もしも、そんな争いになれば又しても財務省が悪者とされるであろうことは火を見るよりも明らかではないか。
およそ、人として自分が生まれ育った家が消滅することを望む者がいるとは私には信じられない。かく言う私自身が幼年期、少年期に育った古ぼけた茅屋を老年になった現在でも時折夢に見るほどだからだ。我が家は戦時中の空襲で焼かれたが、紅蓮の炎に包まれている小さな我が家をこの眼で見つめながら私は胸の張り裂ける思いで睨みつけていた一瞬を昨日の如く鮮明に記憶している。
皇后陛下とて、二十数年間お過ごしなされた実家が取り壊されると聞いて万感の思いでおられたろうことは想像に難くない。しかし、その思いを例え一言でも漏らされたとすれば大変なことになることは必定だから、苦しい胸を押さえて、敢えて亡父母の遺言でもあったかのような発言をされたのではないかと思う。
今更ながら、美智子皇后陛下の賢明さと深い思いやりのお心に感銘するばかりだ。
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   竹中叩き

このところ、竹中叩きが喧しい。
とりあえず某紙の評論を紹介する。
「竹中平蔵経済財政担当相が金融担当相を兼務する人事は、銀行業界に大きな衝撃を与えた。ある大手行首脳は『公的資金の再投入だけでなく、新たな再編圧力が強まりかねない』と苦渋の表情をみせた。不良債権処理を加速させたい日銀は「銀行保有株買い取り」という捨て身の作戦が功を奏した形だが、金融の一層の量的緩和を求められることは懸念している。
 『民間銀行としての終えんが近づいてきたのかもしれない』。ある大手行幹部は『一時国有化』を視野に入れる竹中氏への警戒感を隠さない。銀行業界にとって、柳沢伯夫・前金融担当相は『公的資金投入への圧力をはね返してくれる頼もしい存在』との思いがあり、続投を前提に、引当金の強化など不良債権処理の加速策を模索していた。
 不良債権に対する引当金を抜本的に積み増せば、体力のない銀行は資本不足に陥る可能性がある。大手行は、公的資金投入について『経営者の退任と行員の給与削減は避けられないし、そもそもデフレを阻止しなければ、処理しても不良債権は増殖する』(幹部)と、なんとしても回避したい意向だが、竹中氏が金融行政を仕切ることで、『首を洗って待つしかない』(大手行役員)との声も出る。」
竹中氏以前の金融・財政政策はすべて失敗したことは異論のないところだと思う。
今回竹中氏が金融担当兼務という立場を与えられて登場したからと言って、経済復興に成功できるかどうかについて専門家でない私に論評出来ることではないが、これに対する大手銀行首脳部の猛反対(族議員を巻き込んで)は彼らのクビにかかわることだから、当然に凄まじいばかりだ。ただし、身の危険を感じているのは金融界の一握りのトップ連中だけであることも確かだ。銀行の首脳部は保身術のみに長けた識見乏しい人物ばかりだということは長らく金融界に身を置いた私には痛いほど分かっているつもりだ。
外務省官僚だけでなく、政府高官のキャリア組すべてが自分達の保身を計るために鉄の団結を護り続きている醜態は昨今ようやく白日のもとに曝されるようになってきたが、銀行界とて全く同様なのである。
ハッキリ言って、竹中氏の強硬策が成功するという保証はない。しかし我が国経済は瀕死の重態にあり、大手術を必要としていることも確かだ。反対派はソフトランディングすべきだなどと主張しているようだが、要は金融界トップだけが生きながらえるためのコップの中の闘いに過ぎない。
本来ならば、竹中氏を起用した小泉氏が強力にバックアップすべきだが、弱腰首相の本質を明らかにした小泉氏は、もしも竹中氏の政策が周辺の猛反対で潰されたときには、責任を竹中氏一人に負わせて、自らは安全地帯に逃避するかのごとき構えでいるようだ。
いずれにせよ、現在の金融界秩序をぶちこわし、再構築する以外に我が国経済再建策はみあたらないと思うのだが、このまま竹中氏の足引っ張りに終始し、銀行トップや族議員は我が国の安楽死を願っているのではないのか。
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   教育論

某紙の報道で教育基本法の改正反対を決議、日教組が中央委で「見直す理由はなく、憲法や基本法の理念を行かすことが重要」とあった。
これだけ教育荒廃が叫ばれているというのに「見直す理由はない」などと、誰が考えたってヘンだ。
文部科学省と日教組の馴れ合い責任は重大犯罪とすら思える。
今や瀕死の状態にある我が国の教育再建のためには大手術を決行するしかない。
私はもし、石原内閣が成立できたら戸塚宏氏を文部科学相にと願っている。
現在獄中に有る人物であるためか、至難の人事ではあろうが、そのくらいの発想転換をしなくては、もはや我が国の未来は無いとさえ思う。
戸塚宏氏は単なるヨットマンなどではなく、彼の論文を読めば極めて冷静かつ理論的な教育論を保有し、且つ実践して見事な成果を収めている有能な教育者であることは明白だ。厳しい教育課程の中での事故を理由として、彼を有罪とするならば全国各地で事故死した生徒がいた学校長すべてが有罪とされ、収監されなくては公平を欠くことになる。
いままでに実施されたすべての教育改革が失敗している以上、もはや頼りとすべきは戸塚理論の実践あるのみと私は確信する。
教育というものは強制すべきものであって、コドモの自由な意志を尊重するなどと美辞麗句をならべていては益々悪い結果を招くだけに終わってしまう。
「ゆとり教育」などはサヨクと日教組の陰謀に文部科学省が加担して自らの既得権維持を計るだけのものだ。
小泉氏は「米百俵」の例を引用して大向こうをうならせたところまでは良かったが、いったい何をやったのか。
我が国の教育システムは亡国の危機寸前といってもよいほど悪化の方向に爆走中なのだ。
幼児は子猫や子犬同様、いつも動き回っていなくてはならぬ生き物だから、小さな子供達にとって、自由にはね回ることが出来る遊び場は絶対に必要であると同様、自我が目覚めてくるハイティーンの頃になると、若さゆえの有り余った情熱のはけぐちが必要となってくる。ごく一部の若者達は将来のエリートを目指して勉学に励み、東大を卒業して特権階級の地位を獲得するためにエネルギーを注ぎ込んでいる例もあるが、それは、私に言わせると一種の奇形児にすら感じられる。
私は若者の頃には登山の世界に身を投じ、命がけのロッククライミングに熱中した。
その当時、山は若者達の世界だったが、現在では少し高い山はまさしく中高年登山者ばかりの世界となってしまった。
海の知識は乏しいが、石原慎太郎氏や戸塚宏氏、堀江謙一氏などが青春の情熱を注ぎ込んだヨットマンの世界も登山の世界と同様か、或いはそれ以上に、常に死と直面した厳しい場所だったと想定できる。だからこそ、戸塚ヨットスクールで親から見放されたような心身障害児が次々と社会復帰に成功したのではないだろうか。
他の手段であれだけの実績をあげた例を私は聞かない。
いまこそ、若者達に対してそのエネルギーを注ぎ込む対象を示してやることこそ緊要なのだ。正邪善悪は別として戦時中、すべての若者が祖国を愛することに情熱を注ぎこんでいたからこそ、青少年の犯罪など皆無に近かった。
日教組と文部科学省は共謀して我が国の安楽死を願い、政府も「知らぬ顔の半兵衛」をキメ込んでしまっていると、私は見る。
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   人命の重さ

 シナの史書の中に「人、相食む(ひとあいはむ)」と書いてあれば、飢えて食べるものがなくなり、自分の子供達を交換しあって殺して食べたというものであり、シナでは人体も食品の一つであることは多くの史書に記述されているようだ。
 嘗ての我が国では身命を「死は或は泰山より重く或は鴻毛より軽し」との司馬遷の言葉がよく引用されていた。これは自分の命を場合によっては鴻毛ほど軽くみなすべきだという武士道精神に基づくものだが、シナ人及び朝鮮人の人命に対する価値観は他人の命は鴻毛の軽さであり、自分の命は重いという点で、彼我の人命価値観は全く相反している。
 だからこそ、毛沢東は自国民を数千万人も殺害し、ケ小平は戦車で轢き殺しても平然、金日成も数百万人を虐殺している。日本では人格者と評価の高い周恩来とて例外ではないし、蒋介石も228事件の際に台湾人3万名を考えられないほどの残虐さで殺戮した。
我が国での虐殺と言えば織田信長の一行宗門徒制圧が最大かもしれないが、信長は決して武士道精神を忘れてはいない武将であり、討ち取った今川義元の首を丁重に駿河に送り返している。しかし、シナでは敵将の墓を暴き、屍を引きずり出して鞭打つという行為を平然と行うことが日常化されていたようだ。
「降兵十万坑せらる」なんて記述がシナの史書によく記述されているが、これは降参してきた捕虜十万人を生き埋めにして処刑したということなのだ。

 拉致問題で、帰国者を迎える家族や郷里の友人達の言動が読者や視聴者にとって最大関心事であろうことは想像にかたくないが、生還した人の家族以外に、死亡通告を受けた他の家族こそが最も嘆き悲しんでいるに違いあるまい。死亡したとされる人達の家族から今更コメントをとっても意味ないというのが商業マスコミの方針かもしれないが、現在の紙面においては死亡(とされた拉致被害者)の家族は横田さんを除いてはまるで「カヤの外」という扱いのようだ。
もしも私が大新聞の編集主幹であったならば、と考えてみた。
帰国者家族の言動を報道するために配下の記者を貼り付けるであろうことは同じだが、同時にやるべきことがあるはずだ。
まずは親北忠誠を誓っていたドイタカコ・ノナカヒロム・コーノヨーヘイ・タナカヒトシその他、ジョンイル将軍様崇拝者のところに記者を走らせコメントを取ってこさせたい。各省庁の記者クラブには一日中マージャンにうつつをぬかしているヒマな記者がゴロゴロしているのだから、人手はいくらでもある。
質問1「北では8人の拉致者が各種の事情で死亡したと報じているが、貴方は北の発表通りと信じていますか?」
質問2「大半の日本人は恐らく未帰国者の大半は無法に殺害されたか、あるいは未だに強制収容所で拘束されていると思っているが、それを間違いだと思いますか?」
質問3「貴方は北での人脈を活用して死亡者の遺骨返還と、死亡事情の具体的説明を求めるお気持ちがありますか?あれば、その具体的手段は?」
多分、返事のしようがないだろうから、その時の彼らの表情を克明に報道する。
続いてなんらかの手段を用いて北朝鮮政府に次の通り要求する。
「拉致死亡者とされる人々の遺骨返還と死亡事情について客観的に根拠ある事情説明を求める。墓地が洪水で流されたと弁明するならば、日本国内においてその川底へ潜って浚渫するボランティアを募集する。我が国では南方戦線での戦死者遺骨採集に努力された経験豊富なボランティアが沢山おられるから、その方々のご協力を得られるはずだ。」
これに対する北の回答は「騒ぎ過ぎると、まだ残っている人が危険にさらされるぞ」とのお決まりの脅迫文句に決まってることも論を待つまい。
死亡とされ悲嘆にくれている家族の方々に対してそのくらいのことは新聞社ならば、考えるべきではないのか。
 日本の新聞社もシナ・朝鮮に洗脳されたものか、他人の人命は鴻毛の如き軽さで考えているようだ。
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   野生動物の保護

丹沢の野性の鹿と動物保護についての所見を一つ。
40年ほど昔、私が丹沢山塊を始終歩き回っていた頃は、クマや猪、羚羊などの姿を見ることはあっても、鹿などほとんどいなかった。
しかし動物保護の観点からか禁猟が厳しくなったためか急激に鹿が増えてしまい、現在では山林業者のみならず山麓農家も畑を荒らす鹿害に悲鳴をあげている。
不思議なことに保護されていたはずの羚羊は絶滅状態、クマや猪の頭数は昔とあまり変わっていないようだ。(公的機関に問い合わせたわけでなく私の思いこみかもしれないが。)鹿は人間を直接攻撃したりせず、またその愛らしい容姿によって登山者からも可愛いがられ、エサなどを貰えるので人懐っこく近づいてくる。
あまりに馴れ馴れしくエサをねだってくるので最近では登山者にもいささか辟易される傾向にあるようだ。

数年前の厳冬期、私は西丹沢の登山者も滅多に入らない深山の中で、ツエルト(軽便テント)をひっかむり、ビバーク(野宿)の支度をしていた。
単独山行が大好きな私は当然この時も一人だった。
夕食用に持参した稲荷寿司が寒気のためガチガチになり喉を通らないので、コンロで非常食用ラーメンを茹でているところへ、ひょっこりと親子連れの鹿が現れた。
餌もない冬場だからエサ欲しさに近づいてきたことは確かだった。
数メートルまで近寄り、物欲しげに私の顔を凝視しているので、私は寒気で食べられない稲荷寿司を投げてやると、その寿司は親鹿が素早くパクリ。次は子鹿にあげようと思い、子鹿に向かって投げた寿司も親鹿の胃袋に収まってしまった。(なんてこった。鹿には親心ってもんがないから馬鹿だなんて言われるんだ)と毒づきながら、3個目、4個目のお稲荷さんも親鹿に奪われた。
そして5個目、最後に残った一つを子鹿の口元を狙って投げた。子鹿の眼前に落ちたお稲荷さんが漸く子鹿の口に入った。それからも親子鹿は暫くは待ち続けたが、やがて諦めたのか藪の中に姿を消していった。
あたりがすっかり暗くなり、寒さよけのためにウイスキーを呷った私は震えながらもなんとか眠りに就いた。
トロトロしている最中に突然「キャーン、キャーン」とけたたましい獣の鳴き声に目を覚まし、ツエルトを外して近くを見回した。腕時計を見ると午前零時過ぎ。真っ暗な闇の中にピカリと光る4つの眼、クマや猪であるはずがない。先刻の親子鹿が又舞い戻ってきたのだった。しかしもはや与えるものを持たない私は不貞腐れて親子を無視し再び寝込むしかなかった。

以上は哀れな丹沢の野性の鹿の話だが、これは増えすぎてしまった野生動物の悲劇と言えなくもない。
世界の海では鯨が増えすぎていることが科学的に立証されているというのに反捕鯨国の大合唱で捕鯨国の少数派諸国は困惑している。
自然保護、野生動物保護の趣旨を否とするものではないが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」との諺もある。野生動物保護もほどほどにと主張したい。
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   戦争と平和について

産経新聞「正論」に元駐日英国大使サー・ヒュー・コータッチ氏の論説が掲載されていた。先ずはその一節を下記にご紹介しよう。
「今回の訪問を評価し、北朝鮮との対話を続けることは北朝鮮を孤立させ、もっと極端な措置をとるよりはよいことだという議論がある。・・・(中略)しかし北朝鮮政権はサダム・フセイン政権同様、何度もうそをつき、政策をくるくると変えてきたので超楽観的な人だけが両指導者の約束なるものを信じるのだ。・・・」

だいたい独裁政権とのマトモな対話など信じられるはずもないが、戦争を仕掛けられる恐喝に怖れをなし、ワラにも縋りたい思いで金正日の偽言を信じたい人が多いのかも知れない。
上記の意見を読んだ私は第2次世界大戦の端緒となったウイーン条約の史実を思い起こした。

「ヨーロッパの平和を維持するためにどうしても戦争を避けたいと考えていた当時の英国首相チェンバレンはムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催にこぎつけた。
1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれた。このミュンヘン会議では、戦争で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエは宥和政策をとり、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないという約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印した。
これでヨーロッパの平和を護ったとして意気揚々帰国したチェンバレン首相に対し、チャーチルを除くすべての英国民は歓呼喝采して迎えたという。
そして10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐した。
 宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス=ドイツに対してとった妥協政策のことである。イギリス・フランスはナチス=ドイツが反共産主義を唱えているので、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス=ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策をとった。」

私達は独裁者に宥和政策をとることが、どのような結果を招くことになるのか、この史実から学ばねばならないのだが、人類そして我が国為政者はいつまで経っても歴史を学ぶ姿勢が見られないようだ。
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   有権者の責任

最近増えている社会派テレビ番組では各種の問題をただセンセーショナルに叫ぶだけで、単なるショーに過ぎないようだ。
まったく、テレビ局の視聴率稼ぎの露骨さは見るに耐えない。
特にトーク番組などはすべてサヨク派司会者で占められており(筑紫哲也、久米宏、愛川欣也、田原総一郎などすべて)政治家や大企業経営者を罵倒すれば受けると思いこんでいるらしく、他人事のように悪罵を連ねている。
しかし、そういう政治家を選んだのはいったい誰なのか。
視聴者たる国民が一応は公正な選挙で選んだのだから、責任は投票した国民が負うべきなのだが、社会派番組で視聴者の責任を問うことは先ずない。
テレビ局も視聴者に迎合し、悪いのは政治家であり、マスコミや視聴者には何の責任もないと思いこんでいるらしい。ほとんどのマスコミは視聴者あるいは読者に阿ねて、決してその責任を追及しようとはしないのだ。
アオシマ都知事が登場した選挙の際に、私は立候補者の顔ぶれをみて、どうしても都知事に相応しい人物を発見出来なかったことから棄権した。
許されることなら、政見など全く持っていないアオシマに×印の投票をしたいものだと思ったものだった。
前回は全く迷うことなく、早朝から投票所へ行き、石原氏に一票を投じた。
ミノベ、アオシマ、ノックなどに投票した人達は、その後の経過を見ていったいどう思っているのか聞きたいところだ。
小泉首相は公選によるものとは言えないから、小泉氏を攻撃するならば、彼を選んだ自民党国会議員及び、代議員に攻撃の矢を向けるべきだが、それでは視聴率が稼げないとみて、選ばれた政治家本人だけの責任を追及しているのではないだろうか。
これは終戦直後に、アメリカ進駐軍が採用した占領政策、つまり日本の侵略戦争はすべて一部の軍国主義者の責任であり、一般国民は騙されただけだという奇妙な論理で日本の大衆を洗脳してしまったのと全く同じ手法であろう。
人間社会で悪い事が起きれば常に誰かのせいにしようとする。中世の魔女裁判の考え方をいまだに脱することが出来ないままのようだ。
政治家への批判はあってしかるべきだが、同時にそういう人物を選んだ選挙民である我々自身も猛省しなくてはなるまい。
国民のレベルが低ければそれ相応の指導者しか現れないものだと、誰かが言っていたが、今度こそ我が日本国に相応しい優れてリーダーを国政の場に選出したいものだ。
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   南京大虐殺についての私見

 20万の人口しかいない都市でどうやったら30万人を殺戮できるのかという素朴な疑問について虐殺派からいろいろな弁明がでているようだ。
この問題はまぼろし派、中間派、虐殺派にわかれ、多くの論客が大激論を交わしており、いまや、虐殺派の虚構が暴かれ、虐殺皆無派は少数にしても、すくなくとも中国政府のプロパガンダ(日本からの援助資金獲得目的)であるとする説が有力だ。
アメリカでは在米中国人が中心となって虐殺宣伝集会が開かれているようだが、理論的に破綻していることは確かといえる。写真のウソも次々と暴かれている。
有力な証拠とされる「ラーベの日記」の著者、ドイツ人ラーベが重慶政府の秘密顧問であったことも、アイリス・チャンのインチキ本の偽作写真もすべて暴露されてしまった。
私見としては、虐殺皆無とまでは主張しないものの、通常の戦闘時に発生する戦死者および民間人に紛れ込んだ便意兵(国際法違反)が発見されて処刑された程度と考えており、戦闘に巻き込まれた民間人もありうると思っている。
但し、その責任は日本軍の無血開城勧告を無視し、部下の將兵を置き去りにして自分だけ逃亡してしまった南京防衛軍司令官唐生智及び、その上司である重慶政府蒋介石にあるといえよう。それでもなお、中共政府は死者数を50万人への格上げをはかっているという話を聞いたから、さすが白髪三千丈の国と感嘆するばかりだ。

私見としては南京の人口増減記録については、さして重要視はしなくともいいように思い、それよりも、遺体をどのように処理したかが問題だと考える。
カンボジアでのポルポト大虐殺は大量の白骨が掘り起こされたため、事実が白日のもとに曝さたが、南京大虐殺は物証がないし、それほど大量の遺体埋葬は当時の状況下にあって処理能力の観点から物理的には不可能であったと断じられている。
東京裁判で検察側証拠として提出されたのは主に「紅卍字会」と「崇善堂」の二つの慈善団体の記録で、「紅卍字会」は43071体埋葬、「崇善堂」は112266体埋葬とされているが「紅卍字会」にはある程度の埋葬作業は出来たものの水増し数字と見られ「崇善堂」に至っては作業など全くしなかったとの疑いが濃い。
南京戦参加将校畝本正巳編『証言による「南京戦史」』(偕行社刊『偕行』。昭和59年4月号〜翌年2月号)を核として編集されたもので、ここに、『朝日新聞』(平成3年1月19日)すら大虐殺派否定の“転向表明”をしている。
当時の支那軍は総司令官すら勝手に逃亡してしまうほど、軍規紊乱している状態であり、残された支那兵は逃亡先もなく、支那民間人部落で略奪、虐殺を行ったとの証言者もたくさんいるから、死者の多くは支那兵に殺害されたものとも考えらる。
中国四千年の歴史を振り返るまでもなく、先の文化大革命でも支那人は自国民を虐殺することなど、何らの罪悪感も抱いていないようだから、南京周辺における自国民虐殺などは特別な行為であったとも思えない。
私は自信をもって計数を示す根拠は持っていないが、多くの資料を渉猟して歩いた感触から、死者総数5万人前後、そのうち正常な戦闘での戦死者は日支両軍で3万名、便意隊兵士及び民間人の死者(支那兵による虐殺も含む)などの合計2万名くらいかな、という程度の感触である。
従って中間派ということになるかもしれないが、その数字すら埋葬作業は極めて困難だったはずだ。
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   誘拐殺人犯の恫喝と強制連行

北朝鮮が「拉致問題でガタガタ言ってると、ミサイルをぶち込んでやる」と脅してきたことは、まさしく誘拐殺人犯人が居直って恐喝しているとしか思えない。
金正日が拉致を謝罪したと日本のマスコミが報じたものの、同国内ではいまだに伏せられている。
口頭で謝罪の言葉を吐いたというだけだから、後になってそんなこと言った覚えはないと逃げ口上を言えるように自国内では報道しないのだろう。
その程度のことも見抜けない我が国の外交担当者はドイタカコや辻元同様に、北朝鮮の傀儡となってしまったに違いあるまい。
「長期間で数人が死亡したくらいで・・・」と北は言っているが、国家機関が関与してことを認めていながら、死因や経過などを説明出来ないままなのはどうしたわけか。
若くして次々と死亡したというのは処刑されたのに間違いないと思うが、今頃北側では拉致者の死因デッチあげに一生懸命な作業中であろう。
相手が強制連行を言うならば、我が国では犯罪者以外の外国人など強制連行した事実はないことも主張すべきだ。戦時中、半島に住む朝鮮系日本人に対して国策に協力すべきことを命じたことはあったかもしれないが、そういうならば純日本人数百万人が赤紙一枚で戦地へ強制連行されていたのだし、女子挺身隊、大学生・中学生の工場動員、学童疎開まで強制連行と言うことになってしまう。つまり当時の日本国籍者数千万人が強制連行されたわけだが、現在でもそのことに文句をつける日本人がいるとは聞かない。
従軍慰安婦などは、もはや論考する対象ともなりはしない。
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   奇妙な首相公選論

もしも、現在の段階で首相公選が実施出来たと仮定するならば、まずダントツで石原慎太郎氏が当選することは火を見るよりも明らかだと信じるが、現段階での公選実施には余りにも抵抗が多すぎるようだ。
それにまた、石原内閣が実現しえたとしても、今の制度のままでは石原氏とて自己の政治理念を貫徹することすら実現可能かどうか。
ですから、石原氏がその力量を発揮出来る場として国政を捨て、都知事のポストを選択したことは正解だったように思う。
私は石原首相実現を期待しているが、それは彼の信念を実現出来るシステムが構築されることを前提とせねばならない

最も望ましいことは国民一人一人が自覚して、信念ある議員を選出し、それら選良達が誰にも煩わせられることなくそれぞれの政治的信念に基づいて首相に大きな権限(最低でも都府県知事、あるはアメリカ大統領程度の権限)を付託することだろうが、不思議なことにどんな立派な見解を持っている人物でも議員となると、たちまち汚職やウラ利権亡者となってしまうのが必然のようだ。
そして、国民大衆は騙され続けてきた。
こんな制度を徹底的に改革出来る方法があるのだろうか。
だからこそ、革命だとかクーデター待望論が出現してしまうわけではないのか。
しかし革命やクーデターで政権がいくら代わったとしても「政権は必ず腐敗する」というのが歴史の教えるところだ。
石原内閣とて例外視するわけにもいくまい。
ひところ「出たい人より出したい人を」なんてアホなプロパガンダのポスターが貼られまくっていた時期があった。
出たい人が出したポスターだったということが忽ち見抜かれ、いつの間にか姿を消した。
そこで私の頭にある突飛な妄想が浮かんだ。

あえて妄想であるとお断りしておくので、単なる反論は黙殺します。

まず、この際いかなる手段を用いても石原氏に首相の座を奪取して貰いましょう。

石原氏以外にはかかる大変革を出来る人物は見あたらないので、先ずは憲法の無効を宣言し、選挙制度の大変革を強行して貰おう。

議員は無報酬とし交通費や郵送料その他の特権はあたえない。

議員が希望する政策秘書(試験合格者)5名以内の給与は国が直接負担し(政党の代理受領等は禁止)無料の議員事務所に常駐させることを条件とする。
(身内の政策秘書は厳禁。)

議員になりたい人は最低限度の政治知識を保有しているかどうかの資格試験を受けた上で選出事務所に届け出し(常時受付)、立候補者リストとして公開する。

数年に1回、このリストの中から受付順(つまり当番制)あるいは抽選で議員を選出しま当然選挙運動などの費用もかからない。
いわば学級委員の選出と同じようなものとするわけである。
政見発表は国費によるテレビによるスピーチ、討論或いは新聞紙上に限定し、街頭演説、郵便、電話等によるPRは禁止する。
この方法を採用すれば議員になることに格別のメリットはなく、むしろ自己資金の持ち出しとなるだけですから、ボランティアとして本当に国政に志ある人だけしかリストへの登録などしないはずだ。

新議員選出の時には、一般の有権者の意向を反映させるために、公表された候補者リストに対して、×印の拒否権のみ投票することを義務づけする。
(最高裁判事の投票と同じシステムだが、棄権者は病気等特別の理由がない限り罰則規定を設ける。)

現在の参議院議員は全員解任し、各都道府県知事が指名した者2名が新たな参議院議員に任命する。

この際、参議院議員の名称を廃止、衆議院の議決拒否権も無くして諮問機関に徹せしめるだけの機構とし、再任は認めない。実質的な一院制となるが、衆議院解散の際には一時的に衆議院の議事を代行する権能を持たせる。

現在の政党はすべて解散させ(これが最難事)、議員交代時に改めて政治的思想が似通った者だけが集合して、その都度新政党を組織して貰う。

石原首相にはアメリカ大統領以上の大権を期間限定で付与した上で、議員任期終了時に改めて石原首相への信任をも問わなくてはならない。

新内閣成立の場合には単に大臣を交代させるだけでなく、各省庁の高官(少なくとも局長以上)をすべて解任交代させる。

大臣はともかく局長クラスの再就職先は政府が関与する機関、公団等への天下りを認めず、原則として私立大学、私立高校への教師くらいの仕事を斡旋する。
そして高級官僚を教授あるいは講師として受け入れた学校に対しては国費から給与相当分あるいは半額程度の補助を実施する。
この施策によって官僚が最も不安を感じている退官後の生活が保証され、在任中における企業との癒着関係を断ち切ることが可能だし、高級官僚ともなれば学校教師としての知識に不足は無いはずだ。

学校での勤務は年齢制限を設定し、定年後は充分な恩給を支給することにより官僚の生活不安を除去することが可能だと思う。
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   敗戦忌に想う

8月15日に靖国神社に参拝した。
。私の近親者も祭られているが主として特攻隊員や無名の英霊を追悼したいとおもったからだ。これは例年の習慣ながら、この時期になると私はどうしても先の大戦、大東亜戦争のことに思いが至ってしまう。
多くの日本人はあの戦争は軍国主義者に扇動されて他国への侵略に引き込まれたのだと今だに信じさせられており、あれはマッカーサー司令部の占領政策に基づくプロパガンダであったことに気づいていないことは残念だ。
戦争を煽ったのはすべてのマスコミであることは当時の新聞に目を通せば明白であり軍首脳部は陸海軍ともアメリカとの戦争に勝つ自信は無かったから、できればアメリカとは戦端を開きたくはなかった。

欧米のアジア侵略と支配に障害となる我が国の国力増大を懸念した世界の列強は日本の弱体化を企図してABCD包囲陣を組み、資源のない日本の経済的崩壊戦略を採用した。

そこで到底我が国が受け入れることが不可能なハルノートを突きつけた。
こんなものを突きつけられたらモナコでもルクセンブルクでも宣戦布告をしたであろうと言ったのはインドのパル判事だった。

アメリカ大統領ルーズベルトはアメリカは絶対に戦争に加わらないと公約して大統領に選ばれた人物だから公約違反に厳しいアメリカ国民に対しては絶対に開戦の指令を出すことが出来なかったため、あらゆる手段を講じて日本から宣戦布告されるように工作した史実が明らかになっている。

しかし敗北寸前の窮地にあった英国を助けるために再三国際法違反の軍需物資を英国に輸送したのでドイツ軍首脳部はアメリカの輸送船を攻撃すべきことをヒットラーにくりかえして進言した。当時は中立国であったアメリカがドイツと戦っている英国を支援することは国際法違反であるとともにドイツを挑発する目的であることは明白だからだった。

しかし天才戦略家であったヒトラーは挑発に乗らず、絶対にアメリカ輸送船を攻撃してはならないと厳命した。アメリカの参戦を阻止するためだった。
もしアメリカの輸送船を攻撃すればルーズベルトに参戦の口実を与えてしまうことがヒットラーには分かっていたからだ。

その当時、満州には日本軍最強の関東軍が腕を撫して構えていたのだから、すこしでもソ連軍攻撃の姿勢を見せていたら、極東に配置されたソ連軍を引き上げることが出来ず、ドイツ軍は簡単にモスクワを占領して枢軸軍の勝利に終わったはずだったが、日ソ不可侵条約をバカ正直に守った日本軍がソ連を攻撃する意志など全くないことをスパイのゾルゲが通報したことからスターリンは安心して極東に配置したソ連軍すべてを対独戦線に投入することが出来たため、ドイツ軍はナポレオンと同じ失敗を繰り返してしまった。

ヒットラーは日本軍が不可侵条約を無視してでもソ連を攻撃して欲しかったし、それ以上にアメリカと戦わないことを望んでいた。しかるに無理難題を要求したハルノートに激昂した単細胞の日本政府はルーズベルトの挑発に乗ってアメリカに宣戦布告してしまった。外交下手は日本の伝統だったらしい。
ドイツ及びイタリアは三国同盟を守るためイヤイヤながらアメリカに宣戦布告せざるを得なかったからヒットラーはさぞ日本の軽挙に慨嘆したことであったろう。

私が尊敬している小室直樹博士は、その時の日本は英国とオランダにだけ宣戦布告すべきだったと主張されている。一見奇異な意見のようだが、当時の日本軍の実力からすればシンガポールやインドネシアの占領は極めて容易だったから、必要な物資を獲得することが出来たし、アメリカは前述の事情で手出し出来なかったはずなのだ。
正しく卓見だと思う。

そして、南方地域占領の後、直ちにソ連かスイスを通じて講和申し入れすべきだったのだ。たとえ、アメリカに宣戦していたとしても、ミッドウエイ開戦の直前までに講和申し入れすべきだったのに日本大勝利を謳歌してそれを阻んだのもマスコミだった。
そうなればルーズベルトは地団駄踏んで悔しがったろうが、もはやどうすることも出来なかったはず。第二次大戦は日独伊の勝利に終わり、戦犯法廷の被告はルーズベルト、チャーチル、スターリン、蒋介石、毛沢東、マッカーサー、ニミッツなどであったことだろう。

ただし、その戦争が終わったら日独が世界の覇権を争って熾烈な戦いが発生したであろうことは想像に難くないし、ユダヤ民族が地球上からヒットラーによって完全抹殺されていたかも知れないのだから、勝てば良かったのかどうかは軽々に判断は出来かねる。

以上は、私のいつもながらの夏の夢にすぎないことを付記しておくが、これらの論の多くは小室博士の著書に詳述されているので、受け売りと言われても異存はない。
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   奉仕活動について

青少年に対して奉仕活動の義務化を最初に主張したのは、たしか作家の曾野綾子さんだった。彼女は現在では作家というよりもアフリカその他の難民救助のボランティア活動をライフワークとしており、そのために無報酬で日本財団会長に就任した人だ。

しかし曾野さんの論文に対して直ちに猛反対があり上坂冬子他の人と論争があった。

先般の産経新聞「正論」欄で曾野綾子さんは再び青少年奉仕活動についてのエッセイを発表してたが、それによると、「必ずしも義務化でなくともいい。青少年が自主的に奉仕活動をできるような環境作りが必要だ」と一歩後退した論調になっていた。

私も制度的に義務化するのはどうかな、と疑問を持っているが、青少年にはあのような社会奉仕を通じての訓練は教育上極めて効果が大きいと信じているので、出来るだけ現代の青少年に奉仕活動を体験して欲しいものと思っている。

そこで私は石原都知事に対して次のようなメール送信した。

「国政では青少年に対しての奉仕活動義務化など現段階では恐らく不可能でしょうが、都知事ならば都下の学校に対して、クラブ活動の一環として生徒の自主性に基づいての「奉仕活動部」あるいは「ボランティア部」などの新設を勧奨する程度のことは出来るだろうし、校長が適任の教師をアドバイザーとして選び、生徒の自主的運営管理による「奉仕活動部」などが発足すれば、都として若干の補助を与えるか、あるいは一般からの寄付募集を手助けする程度のことが出来ないはずは無いと思う。」

私自身は奉仕活動の体験がないのでエラそうことは言えないが、現代の青少年には出来るだけ奉仕活動などに従事して社会訓練を体験して欲しいと願っている。

戦時中に徴兵年齢に達していなかった私達は毎日のように厳しい軍事訓練を受け、教官に殴りとばされた経験もたくさんあるが、そうした厳しい訓練が成人となってから役に立ったことも確かであり、殴った教官を憎んだこともなかったし、今となっては懐かしく想い出すだけである。

私の本音としては、出来ることならば青少年に最低でも1年間くらいは自衛隊へ体験 
入隊するか、難民救助ボランティアに参加して欲しいものと思っている。
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